子供の頃、明確な夢を持っていたでしょうか?
明確な夢があった人もいれば、おぼろげな程度、全くなかった人もいると思います。
けれどもその時点では、自分の可能性を信じていたのではないでしょうか。
しかし現実を知るにつれて、その可能性は徐々にしぼみ、年齢と共により小さくなってしまった。
けれどもそこで諦めてしまうのは、まだ早いと思うのです。確かに可能性は小さくなったかもしれませんが、ゼロではありません。
その可能性を探るため、改めて自分を見つめてみませんか。
人はみな違う、けれども喜怒哀楽はみな同じ
そもそも人は、自分と似た考えや価値観を持つ相手には好意を持ち、その反対だと好意を持ちにくいと聞きます。しかし苦手な相手とも、適度な関係を築くことは可能です。
なぜそれが可能なのかというと、私たちはみな同じ性質を持っているからです。
性質と言うと漠然として分かりにくいですが、人の性格や人柄を表すのに使用されるものを想定しています。
例えば、清潔な/朗らかな/せっかちな/計算高い/優しい/社交的な・・・といった類がそれに当たり、それこそ無限にあります。
それら全ての性質を更に簡潔にするため、ここでは「喜怒哀楽」と言うことにします。
私たちはみな、喜怒哀楽を持っています。
だから様々な出来事に反応し、考え、行動を起こすのです。
ただし、喜怒哀楽には個人差があるので、人によって感じ方は異なります。
例えば、恐怖心は誰もがあるものですが、高いところから飛び降りることに恐怖を抱かない人もいます。
そういう人は、恐怖よりもスリルや爽快感の方が勝っているでしょう。スカイダイビングやバンジージャンプなどが、その良い例と言えます。
また状況によっても変化するので、いつも同じ考えや行動をするとは限りません。
例えば、興味のない食品店に行列ができていて、思わず並んでしまったなど。
普段なら買わないけれども、行列に好奇心を掻き立てられて、美味しいかもしれないと期待が膨らみ並んでしまうことはないでしょうか。
更には、気分の落ち込みなど新たな別の条件が加われば、並ぶ気がなくなる人がいる一方、その気分を払拭するために、敢えて並ぼうとする人もいるかもしれません。
このように喜怒哀楽には個人差があり、状況によっても変化するので、みな同じ喜怒哀楽を持っていても、十人十色になるわけです。
そしてみな、同じ喜怒哀楽を持っているからこそ相手を理解でき、逆に疑問を持ったとしても、考えや価値観が合わないだけで、妥協することは可能です。
つまり、相手に共感できなくとも、相手を理解することができます。
そもそも同じ喜怒哀楽を持たないなら、相手を理解すること自体難しく、話にさえならないのではないでしょうか。
同じ喜怒哀楽を持っているからこそ、相手の気持ちが分かり協力できるのです。
小さなことでも気づくことが大事
どんなことでも知ることは大事です。
情報を知っているのといないのとでは、行動に大きな差が生まれます。
前章においても、そのような考え方もあるのかと捉えておくことで、思いがけないところで何かの役に立つかもしれません。
東日本大震災では、思いやり、団結の心が溢れかえりました。
また新型コロナウィルスでは、世界中に閉塞感や孤立感が広がった一方、医療従事者やエッセンシャルワーカーへ感謝の気持ちが湧きました。みなが同じ方向を向いた、分かりやすい例ではないでしょうか。
全人類がいつも同じ方向を向いているとは言えませんが、喜怒哀楽に違いはあっても、皆同じベースを持っているからこそ、このような共感が生まれるのです。
心の中に起こる様々な感情に「自分はこういう一面を持っていたのか」と、新たに気づかされた人も多かったのではないでしょうか。
なかなか経験することのない非常事ではありましたが、その一方で、色々と考えさせられる機会を与えられたと思います。
そしてそこで遭遇した自分の姿は、今までとは異なる未知の自分だったかもしれません。
それは自分自身のみならず、同様に他者を理解することにも繋がったことと思います。
私は東日本大震災の当日、当時勤めていた企業が入るオフィスビルにおりました。
地震発生直後は待機指示が出ていましたが、夕刻近くになり「帰宅も可能」と指示が変更されると、私は自宅に帰る決心をしました。
この判断の正当性は別にして、このような非常事態時、私は俄然やる気の出るタイプであることを知りました。
「何としても家に帰る」という強い気持ちの下、20km近くを歩きましたが、あの時の内から湧き出る力は、少しのことではピクリともしないほどの頑強さで、全身に満ち溢れていました。
よくあれだけの距離を歩こうとしたし、実際歩いたものだと驚嘆します。それまでこのような経験はありませんが、恐らくこれが火事場の馬鹿力と言うものなのでしょう。
しかし、ここにもう一つ大事な気づきがあります。
20km近くを歩きはしたものの、最後は家族の乗る車に拾って貰いました。拾って貰ったポイントは普段なら自宅から車で30分程の距離でしたが、私が歩いていることを知って、敢えて大渋滞の中に入り、何時間もかけて迎えに来てくれたのです。
本当に感謝しかありません。
それだけでは不十分です。
これまで父とは沢山の喧嘩をしてきました。
それでも尚、変わらぬ愛を施し続ける父に対し、私は疎ましく、口も利かず、目も合わせなかったものです。
父の愛は不器用なものではありましたが、その愛に気づけず文句ばかり言ってきたことを、心から申し訳なく思います。
この記事を書く今、私はやっとそれに気づくことができました。
もう一度思い出してみてください。
東日本大震災の時、新型コロナウィルスの時、もしくは日常の出来事でも結構です。
気づき忘れていることはありませんか?
可能性を否定しない
気づくことと同様、可能性を否定しないことは大事なことです。
直ぐに排除せず、「そういうこと(考え)もあるのか」と脇に置いておきましょう。
それが後になって、点が線になる日が来るかもしれません。
現時点において全く関心がなくても、心に残しておくと、それだけ自分の中の引き出しが広かります。
アンテナがより張り巡らされていますから、良い情報や機会に出会えるチャンスも増えると思います。
またポジティブだけでなく、ネガティブな可能性も否定しないことです。
自分を卑下するのではなく、自分の中にある傲慢な部分を躾けることに役立ちます。
例えば、罪を犯す可能性はゼロでないということ。
残念ながら人間は完璧ではありません。
良い面もあれば至らない面もあります。
個人差はあるものの、同じ喜怒哀楽が誰の中にも存在しますから、罪を犯す可能性もゼロではないはずです。世間を騒がす事件の中には「あの人が事件を起こすなんて信じられない」と、周囲から驚かれる加害者がいます。
勿論表面的にはそうなのでしょう。
しかし、人の内面を100%見透かすことはできません。
普段から内面ではそのようなことを考えていたのかもしれないし、発作的もしくは複数の条件が重なり化学反応的に起きてしまった、または正当防衛だったかもしれません。
そもそも多くの人は、何かしらの生きものを殺してはいないでしょうか。
殺虫剤は虫を殺すためのものだし、食のためには多くの生物たちが私たちの犠牲になっています。
生類憐みの令が施行されていた江戸時代であれば、蚊を殺しても罪に問われた時期があったそうですから、その時代に即せば多くが罪を犯していることになります。
生類憐みの令は極端な例ではありますが、誰もが罪を犯してしまう可能性はゼロではないと心しておくべきでしょう。
そうすれば、あらゆる可能性を考慮できるようになれます。
罪を犯す可能性を考えると、逆に可能性を狭めてしまうと思うかもしれません。
しかしそう解釈するのではなく、明日は我が身であるからこそ、冷静に謙虚であるべきで、相手を糾弾するよりは思いやりの心を持とうという意味です。
「人の振り見て我が振り直せ」とは言いますが、これは良い意味、悪い意味につけ、自分の中にあるあらゆる可能性に気づくための良い諺だと思います。
未知の自分に会うチャンスをつくる
「喜怒哀楽に個人差はあれ、みな同じ喜怒哀楽を持っている」「気づくこと」「可能性を否定しないこと」が大事であると述べてきました。
ここではこれらを活用して、未知の自分に会うきっかけをつくりたいと思います。
● 興味はあるけれど、まだ挑戦していないことは何でしょうか?
実は私、ブログはそのようなことから始めました。やってみると、自分の言いたいことを文章で説明するのはナント難しいのだろうと、心底思っています。いつまで続けられるのか不明ですが、まだ諦めずに挑戦したいと思っております。可能性を否定するにはまだ早いと思っておりまして。
● いつもと違うことを敢えて試してみませんか?
そうすることによって何を感じるのか、確かめてみましょう。
例えば、
1.「この方が効率良い」
2.「同じことをする方が好き」
3.「気分転換できて良い」
4.「新しいことをするのは楽しい」等
人によって様々な感想が出てくると思います。
そこに良さを感じるなら、それが手がかりです。
1. 「効率性志向」なら、全体把握に長け、業務改善など立て直しが得意かもしれません。
2. 「同一/反復志向」なら、一つのことを極めることに長けているかもしれません。
3. 「気分転換志向」なら、その場を一変できるムードメーカー的役割が適しているかもしれません。
4. 「新規志向」なら、誰もがやらないことを生み出す情熱と能力が高いかもしれません。
何が好きで、何が苦手か、色々試してみることです。新しい気づきの積み重ねが、更なる気づきに発展していきます。
まだ眠っている自分の可能性を掘り起こしましょう。
まとめ
喜怒哀楽に個人差はあれ、人はみな同じ喜怒哀楽を持っています。
だからこそ、誰もが可能性を持っています。
そのためには、小さなことでも気づくことが大事で、あらゆる可能性を否定しないことです。
まだ見ぬ自分に出会うために、挑戦しましょう。
興味はあるけれど、まだ挑戦していないことは何ですか?
いつもとは異なる方法を試してみませんか?
何が好きで、何が苦手か、色々試してみましょう。
新しい気づきの積み重ねが、更なる気づきに発展します。
自分の望むことをやり、望む方向へ行く。
可能性を諦める必要はないと思うのです。
なぜなら可能性はゼロではありません。
仮に上手く機能しなかったとしても、少し方向転換、もしくはフィットするように微調整するのも可能性の一つです!